新潟県三条市 下田商工会
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しただふるさとフォトコンテスト

季節の花暦

4月上旬/笠堀の水芭蕉
4月下旬/院内の桜
4月下旬/R289のハナミズキ
5月中旬/サマー&サマー
5月下旬/馬場林道の萩
7月下旬/ヒメサユリ
8月下旬/大蛇祭
9月上旬/笠堀ダムの紅葉
10月中旬

しただ地域観光マップ


 下田商工会
 〒955-0152
 新潟県三条市大字笹岡360-1
 TEL/0256-46-3073
 FAX/0256-46-3086
 E-mail/sitada@poppy.ocn.ne.jp
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名所
吉ヶ平 雨生ヶ池(まおいがいけ)
 

八十里越

【吉ヶ平 雨生ヶ池(まおいがいけ)】

吉ヶ平は八百年前にさかのぼる落人伝説、龍神や雨乞いの信仰など、ロマンに満ちた最奥地の集落跡。ここより3.2キロ東へ上ると、ブナの大木に覆われた神秘的な雨生ヶ池に出会えます。エメラレルドの湖面は、深く澄み渡り、龍神伝説を思い浮かばせます。江戸時代には、村松藩領主自ら龍神への信望あつく、釘や金具一片も使わない雨生神社を建てさせました。現在は石祀だけが残り、神々は閉村後、八木神社に合祀されています。
 
> 雨生ヶ池に残る、池の主と名主の娘との恋物語

 
 

【八十里越】

越後と会津を結ぶ街道の中で、もっとも険しい山岳地帯をぬける八十里越。「八里の峠でありながら八十里もあるかのように急峻・長大な峠である」ところから名称があり、古くは平安時代から歴史上に登場します。源氏が平家にとって代わろうとする頃、高倉宮以仁王主従は、都から落ちのび、八十里越で吉ヶ平に来たとの伝承から始まり、戦国時代には、上杉景勝が援軍として会津へ越えて行きました。江戸時代には道幅も広げられ、明治、大正にかけては、物資の流通など生活道路として利用されていました。また、幕末長岡藩の家老・河井継之助の最期の地としても知られ、「八十里こし(腰・越)抜け武士の越す峠」と詠んだ句が伝わります。
 
 
史跡

赤坂古戦場跡
 

高城城址

【赤坂古戦場跡】

明治維新にかかわる、新政府軍と旧幕府側同盟軍の戦い「戊辰戦争」は、会津への八十里沿線にある下田郷もその舞台となり、最大の激戦地となったのが赤坂峠です。峠を挟んで新政府軍と、駒込に陣をしく同盟軍が死闘をくりひろげ、五百名を超す死傷者が出ました。この戦いで、同盟軍が八十里越を会津に敗走し、新政府軍がそれを追う形で展開しました。大正十四年、地元有志者によって、石碑が建立されました。
   

【高城城址】

群雄割拠の時代、下田長尾氏が在地豪族として、下田郷の東半分を支配していました。三条、栃尾に直結する水陸交通の要である城下を守備するため、城の防御として固めたもっとも重要な要塞でした。高城のふもとにある長禅寺から高城城址までの道は”ヒメサユリの小径”を通って50分ほどのハイキングコースになっています。
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神社・仏閣

長禅寺

  長見寺

蓮光寺


 

【長禅寺】

曹洞宗長禅寺は文正元年(1466年)、禅宗越後の国四道場の名刹のひとつ、村松の慈光寺三番目の末寺として開基されました。戦国時代に、寺の裏山に続く峰に下田長男氏の山城「高城」がおかれ、初代城主豊景と二代目城主長尾遠江守景久(長禅寺を建立)父子の位牌が安置されています。また、秀吉に仕え、のち村松藩主堀家の家臣として代々仕えた野口家の源右衛門正国もこの寺に眠ります。幼年より剣に優れ、堀部安兵衛とは同門で互角の腕。藩命で免職の後、下田郷笠堀に移り晩年を過ごし、長禅寺に深く帰依し、遺言により墓が建てられました。
   

【長見寺/化茶釜】

化茶釜新屋の曹洞宗長見寺には、寺宝として不思議な茶釜が所蔵されています。この茶釜は奇妙なことに、住職にだまって檀家をまわってお経を読み、ご馳走になってくるという、おとぎ話に登場するような「化茶釜」です。また、置いた場所を水をもらさずに湿らすので防火茶釜とも言われた近郷で有名な茶釜です。
   

【蓮光寺】

時宗の寺、連光寺は鎌倉時代の末期に開基され、明治末期に奈良の法隆寺からおくられた百万燈経本を寺宝として安置されています。また、寺の本尊は阿弥陀如来。時宗は、浄土宗の一派で一向宗ともよばれていました。寺の本堂無いにある地蔵尊は、願い事に期限を決めて拝むと、かならず成就すると言われ、日限地蔵として近郷に広く知られております。

 
  八木神社
 
 
五十嵐神社 
 
 
  升箕神社

【八木神社】

かつて、八木ヶ鼻山頂に祭られ、八木・守門大名神と称していた八木神社。数百年はあろうかと思われる、杉の木に囲まれた境内には、八木ヶ鼻の霊泉がこんこんと涸れることなく湧き出ています。万治元年(1658年)に建立された本殿は、下田最古の建造物です。祭神は、稲作の神と門戸守護の神、さらに新田義貞父子四神像など。高城々主長尾景久の祈願社で、江戸時代は村松藩主堀丹波守が参拝奉幣を常としていました。昭和45年、吉ヶ平雨生・大山祇(おおやまづみ)神社をはじめ、のちに大江・大谷にあった鎮守社を八木神社に合祀しました。
 

【五十嵐神社】

全国の五十嵐姓の源とも伝えられる五十嵐神社。祭神は、天皇から越の国の開拓という任務を授かった五十日帯彦命(いかたらしひこのみこと)と言われています。江戸時代には、若一王子(にゃくいちおうじ)と称され、安産の神として広く信仰を受けました。宮内省から「御陵墓伝説地」として認可を頂いたのは明治の頃。
 

【升箕神社】

天照大神を主祭神とする升箕神社。江戸時代前期、全国的な凶作で飢饉がおしよせ、これを救うため伊勢から御輿がくり出されました。この御輿が当地に及んだとき、突如動かなくなり、やがて稲作の守り神として祀るようになりました。それ以来順調な作柄が続き、後世までその神徳(しんとく)は語り継がれ、御利益を求めて、参詣者は増加の一途をたどり、蒲原郡一帯から三島・古志にかけて升箕神社の名は高まっていきました。

竜の墨絵拝殿の天井いっぱいに描かれた力強い竜の墨絵は、狩野派の絵師、狩野晏川貴信(あんせんたかのぶ)の作。貴信46歳の仕事で、わずか一日で仕上げたと伝えられています。
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記念館

漢学の里

【漢学の里】

下田は、漢学界の巨星、諸橋轍次博士の故郷。
諸橋轍次は、漢学者で教育者であった父の英才教育を受け、若くして漢学界への道を歩みまじめました。東京高師卒業後、都内の大学教授を経て、戦後は都留文科大学学長に就任。この間50余年にわたり儒学を研究、大漢和辞典そして、全13巻にもおよぶ「大漢和辞典」を編纂するなど数々の偉業を成し遂げ、 昭和40年には文化勲章、51年には勲一等瑞宝章を受章されました。100歳で亡くなるまでに遺した数々の著書や書跡、日記等からは博士の慈愛に満ちた人柄が偲ばれます。

諸橋轍次博士こよなくふるさとを愛し、発展を願った博士は、子弟育成のためにと多額の寄付や蔵書の寄贈をされました。これらは諸橋奨学金として運営、また諸橋文庫として保存・活用されることになりました。

八木ヶ鼻の岸壁をイメージしたレンガ作りの記念館には、漢学の道を生涯あゆみつづけた諸橋博士の遺品、遺墨、そして博士の遺徳をしのぶ方々から寄せられた作品などが展示、所蔵されています。

 


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